京教大の6人、処分保留で釈放 を読んで

どうにも、すっきりしないのが、京都新聞のこちらの記事。

京教大の6人、処分保留で釈放
女子学生集団暴行で京都地検
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009062200095&genre=C1&area=K00

先日、別の日記、「2009/06/01: 「京都教育大生6人逮捕 女子大生に集団暴行容疑」を読んで」にも書きましたが、

京都新聞の記事より引用。
6人は「合意の上だった」「女子大生は酩酊状態ではなかった」などと容疑を否認していた

一人の女性が、合意の上、6人の男と性行為をするということが、私には到底納得が出来ない、そして、酩酊状態ではなかったと彼らは言うが、さんざんアルコールを飲んで、それは、女性も男性もだろうが、酩酊でないということがあり得るのか、また、男達が女性を酩酊しているか否かを、その時点で判断できる状態であったのか。
私は、どうにも、納得が出来ない。

また、地検は起訴する必要がなくなったと、どうして判断できたのだと思う。記事によれば、親告罪でないから、たとえ被害者が被害届を取り下げても立件できるという、ならば、犯罪を目前にして、どうして地検は起訴する必要がなくなったといえるのか、また、地検が起訴しないと云う姿勢は、間接的に女性に非があったように思わせる危険がある。

こういった暴行事件では、女性やその回りの人間達が、もう忘れたい、将来のこともある、なにもなかったことにしたいと被害届を取り下げる例がある。
それはありなのか。
被害を受けた弱者が泣き寝入りする社会を是と出来うるのか。
私たち一人一人が、この社会を構成し組み立てている。だから、社会、そして、その運営に対して、私たちは、それぞれに責任があるはずだと思う。

夜回り先生として知られる水谷修氏の書籍をほとんど読み、その影響か、どうも、私はこういった事件に強く関心を持つ。
本当にこの一連の顛末はありなのか。